子育てまごまご日記(その8)

 

3才までは神様の様に育てろ」というインドの諺があるそうだ。日本にも「三つ子の魂百まで」というのがある。民族は違えども、三という数字が共通しているのが面白い。両者に共通しているのは、三歳までは人間になりきっていないけれど、その子が人生の旅立ちの準備をする大切な期間だから、心して育てろというメッセージであろう。

 

我が孫も今日で3/4才となる。ハイハイのスピードがアップして、「母を訪ねて三千里」をよくするようになった。「ちょっと、見ててくれる」と娘。分かった、と言ったものの、ウチの神様、いやお孫様は、いなくなったことを察すると、急に不安な表情を浮かべる。そこから行動パターンが3つに別れる。

 

一番多いのが、「母を訪ねて三千里」コース。いなくなった途端に、半べそをかきながら母の行った方向にハイハイをするというパターン。ただ、的確に場所が特定できないため、途中で挫折することが多く、併走してハイハイをしている我が輩に助けを求める。

第二のパターンは、自分に捜す元気がないのだろう。抱っこをしろとばかりに、我が輩によじ登ろうとする。そして抱っこをすると、身体で母の所へ連れて行けと懸命に表現をする。

第三のパターンは、いなくなっても気にすることなく遊ぶ、というものである。ただ、この最後のパターンは、機嫌が良くエネルギーが余っているので、気になる所に向かってハイハイをし、目的地に着くとその辺りのモノを舐め始め、時には振り回し、散らかし始めるというものである。まあ、これも大事な勉強なので、大目に見守っていると、娘が乱入して来る。「お父さん、それは汚いから舐めさせちゃあ、ダメ」。娘は孫を叱りながら、私を叱る。そして、舐める学習の時間は、そこでお開きとなる。

 

昨日は少しであるが、一人立ちをした。隣のバアバが破顔一色で「すごい、すごい」と喜んで手を叩いていたので、本人も嬉しそうであった。「這えば立て、立てば歩めの親心」とはよく言ったものであるが、立てば転ぶ心配をしなければならない。ただ、変なことを言う様だが、安全な転び方を覚えるために、転ぶことも必要である。転ぶ時に、手が出るようになれば、しめたものであるが、手の着き方がある。とにかく、転んで打ち所が悪いと、大きなケガに繋がる。早ければいいというものではない。しっかり筋力を作ってから、ゆっくり歩いて欲しいと思っている。

 

1ヶ月前と比べると、「察知」をすることができるようになった。感情が分化しているのであろう。抱っこをされている本人の背中に手を添えただけで、引き離されることを察知して、しがみ着こうとする。構わず引き離すと、泣き出しそうになる。神様を泣かす訳にはいかないので、また戻す。そしてまた、フェイントをかけるように肩に手を掛けてあげる。また「察知」する。明らかに意志があることが分かる。余り何回もやると、神様をからかうことになるので、適当なところで切り上げる。

 

 ジイジとバアバの抱っこ、どちらも同じように抱っこをしているのだが、何故かバアバの方が人気がある。接する時間は、2人ともそんなに変わらない。にもかかわらず、好き嫌いの差において、少し開きがあるように思える。この謎を解くために、これから1ヶ月間、孫を観察しようと思っている。

ところで、最初のインドの諺であるが、あの続きがある。「16才までは召使いの様に育てて、その後は友だちの様に育てなさい」とのこと。なかなか含蓄のある言葉だと思っている。