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子育てまごまご日記(その6)

 

幼子の成長は実に早いものである。今日でちょうど生後7ヶ月になったが、その早さは彼が身につけた能力で実感する。この1ヶ月の間に出来るようになったことは、ハイハイ(ずり這いではない)、お座り、つかまり立ちである。誰も教えてはいないのだが、自然にできるようになること自体が不思議である。両脇を抱えて持ち上げてあげると、ジャンプをするような動作をニコニコしながら繰り返したりする。本人にとって、足を伸ばして立ち上がろうとすることが、余程嬉しいのだろう。

 

「孫は可愛い」と、よく人は言う。最近思うのだが、多分幼子を抱えて親は可愛い、と思う余裕と暇(いとま)がないのだろう。可愛いと思っているから、大事に育てているのだが、何か心配事があると不安を感じて、可愛いさを十分味わうことが出来ないことが多い。不安があるから、子どもを見る目が「チェック体制」に入ってしまう。他の赤ちゃんと比較して、足が太い、背が低い、体重が軽い、顔は可愛いなど、それぞれの項目ごとに一喜一憂する。ぶっつけて赤くなれば、あざになって残らないかを心配してしまう。万事がこんな具合である。

 

実際に我々夫婦もそんな心持ちで子育てをしていたのだと思う。長男は体重が人一倍あったので、つかまり立ちが1歳頃になってようやくできた。よく妻は、グチっぽく言っていた。「大きいね、とみんな言ってくれるけれど、誰も可愛いと言ってくれない」と。今の孫は逆で可愛いと言ってくれるそうだ。それで充分だろう、と思っていると、「小さいのよね、足は太いけれど顔は小さいの」など、娘は不平を言いたもう。仮にすべての項目で平均以上、言うことなしであったとしても、幸せになるとは限らない。ということは、比較すること自体が無駄なのだが、この「比較癖」は多くの人がもっているへんな癖なのである。

 

先日、20年位昔に撮った我が子たちのビデオを業者にリメイクしてもらったというので、夫婦アンド娘の3人でミニ鑑賞会を開いた。ビデオを撮ったものの、再生画面をお披露目するのは初めてである。そんなものである。親はビデオを撮った瞬間に、力が抜けてしまい、再生で楽しむ心と時間的余裕がないのである。

上映会が始まって映し出された幼き頃の息子と娘の姿。「お兄ちゃん、今と同じじゃん」と娘が笑いながら叫ぶ。「子どもたちは、こんな表情をしていたんだ」、今なら素直に可愛いと言える。お前、それって別れた恋人へのセリフじゃあないの!断片的に思い出し、少しセンチになっている。20年前はライブで見ていたのに、可愛さを余り感じていなかった。当たり前の光景だと思って見ていたからだろう。今は、無くなったものを探しだそうと見ているから、別の感情の自分がいる。ゴメン、娘よ、ブスだったと言っているのではない。お前はいつも美しい。何を訳の分からないことを言ってるの!娘に怒られそうである。

 

閑話休題。この時期は、本当に目が離せない。ダッコをし続けると、腰に負担が掛かるので、床に敷いたマットの上に置く。遊び用に買って置いてあるおもちゃ、ぬいぐるみ等には目もくれず、スリッパを目指して脱兎の如くハイハイをし始める。無事到着すると、少し汚れたスリッパを美味しそうに舐め始める。舐めさせると、娘に怒られるので今日は素早く隠す。へんなものがお気に入りである。最近彼がはまっているのが、電気コード、新聞紙、鞄のひもである。そこには、法則性はない。大体、子どもというものは、大人の期待通りに行動しないということだろう。それを大人に教えているのかもしれない。

 

ところで、922日の秋分の日に八王子の子安神社で行われた「泣き相撲」に参加した。古来より「泣く子は育つ」と日本では言われてきたが、神様にその元気な泣き声を聞いてもらって、健康を祈願するという江戸時代から始まった神事だそうである。参加資格はおよそ1歳位まで。そして、大体同じ位の月齢の子ども同士の「対戦」のため、集合時間がそれぞれ違う。7ヶ月の孫は午後2時に会場に行ったが、あふれんばかりの赤ちゃん連れの家族でごった返していた。

境内に設置された舞台が「土俵」代わり。順番に登壇するが、待つこと40分位、大学の相撲部とおぼしきお兄さんにダッコされて、他の5人の赤ちゃんと一緒に登場する。行司が2人いて、「ハッケヨイ」の合図と同時に、この行司が大声を出したり、恐い形相をして赤ちゃんを泣かせるという趣向である。大きな声で早く泣いたり、いつまでも泣いていた方が勝ちである。

少しビビリの我が孫は「戦前」の予想通り、大きな声で身体を震わせて泣いていた。泣くのは声を出すのと同じ。肺活量が鍛えられるし、恐い思いをするのも感情に刺激を与えることとなり、良いことであろう。最後は記念撮影をして帰って来た。